右の手が変わる

詩77:10「そのとき私は言った。「私の弱いのはいと高き方の右の手が変わったことによる」」
「もう決して愛してくださらないのだろうか(7)」と主の愛を疑うことは、クリスチャン生活の中で1度ぐらいは体験することでしょう。右手は主の救いの象徴で「主は、右の手の救いの力をもって聖なる天から、お答えになる(20:6)」とも書かれています。右の座はイエス様のポジションであり(マコ16:19)、右には特別な意味があるようです。「右の手が変わった」という表現はちょっと理解が難しいものですが、神の右の手が今までアサフを守っていたのに、何かの原因によってそれがなくなった…としたら前節までのアサフの嘆きがわかりやすくなります。アサフはたとえ神の右の手が自分から離れたとしても「私は、主のみわざを思い起こそう(11)」と告白し、神が自分にしてくださった今までのわざを思い直し、イスラエルの民をどのように導いたかを思い返しました(20)。すべてが自分の思うようには動きません。ときには神が試練を人に与え、成長を促すこともあるでしょう。世界に起きる災害に生き残るのはすべてクリスチャンだと思うのは、何の根拠もない妄想に過ぎません。もし、生き残れたら主の栄光を表し、主を賛美すれば良いでしょう。しかし、たとえそうでなくても、信じる者には必ず主の御心が働いていることを忘れてはいけません。