悔い改めよ

マタ3:5-6「さて、エルサレムユダヤ全土、ヨルダン川沿いの全地域の人々がヨハネのところへ出て行き、自分の罪を告白して、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた」
なぜ悔い改めなければならないのか?クリスチャンなら基本的な質問かもしれませんが、当時のユダヤ人たちにとってはどういう意味があったのでしょうか?神の声はマラキ書で終わっています。その後イエス様の時代まで400年。仮にその間に神の声はなく、預言者も預言書に書き留めるような神の言葉を受けていなかったとするなら、バプテスマのヨハネの言葉は400年ぶりの預言者の声だと言えます。そしてマラキの最後は「その日が来る(マラ4:1)」とメシヤ預言と一緒に、「彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ(マラ4:3)」とさばきが預言されています。「ついに来た」…とユダヤ人たちがヨハネに従ったのは、自分たちを早く開放してほしいという、民族の願いがそこに表れていると思います。もしヨハネが本当に神の声を語っているのなら、もうすぐメシヤが現れ神の支配する国が始まるのです。もっと言うならばダビデの繁栄の再興です。神が御国に入るには「悔い改めよ」とシンプルに自分たちのやるべきことを示してくださったのです。心を入れ替え、主に思いを向けることがヨハネのするべき使命だったのです