わたしの愛する子

マタ17:5「彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい」と言う声がした」
天から声がしたのは洗礼のとき(3:17)とこのときの2回です。共観福音書のすべてにこの2つの記事が残されています(マコ1:11、9:7、ルカ3:22、9:35)。それは天の父なる神が声を出し、知らせなければならないほど重要なことだと言えます。山の上でイエス様はモーセとエリヤと語っていましたが、ルカだけはその内容が「エルサレムで遂げようとしておられるご最期(ルカ9:31)」についてだと伝えています。つまり十字架のことです。そうすると父なる神が声を出しイエス様を「子」だと宣言し、イエス様を「喜ばれた」のは洗礼と十字架のときの2回だということになります。洗礼も十字架もイエス様ご自身には負うべきものではありません。罪のない者が悔い改める洗礼を受け、十字架に架からなければならないのは道理としては納得いかないものです。しかし、イエス様は本来罪のない者が受けるはずのない洗礼を神の御心ゆえに受け、十字架の死にまで従ったのです。そのイエス様の態度、信仰は父なる神に受け入れられ喜ばれました。それは全世界の人のたましいを救うためでもあり、従ったイエス様は死を打ち破り、栄光をお受けになったのです。