自分たちを指してる

マタ21:45「祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。」
ぶどう園を農夫に任せる話は共観福音書すべてに載っており(マコ12章、ルカ20章)、見過ごすことのできないたとえ話の1つです。祭司長やパリサイ人たちはなぜこのたとえを自分のことだと感じたのでしょうか?すでに多くの人はイエス様を「神の子」と認めており(8:29、14:33)、大祭司もイエス様を捕らえた後の尋問で「神の子」かどうかを尋ねています。ぶどう園の主人を父なる神にたとえたのは奇想天外なたとえだと思いますが、その息子、すなわち神の子イエス様をないがしろにし最後には殺してしまう、というのはまさにパリサイ人たちが練っていた計画そのものでした(26:4)。当時、水よりもぶどう酒のほうが手軽の飲まれていた飲料で、イスラエルはぶどうの栽培に適していました。それゆえにイエス様は多くのぶどうにまつわる話をされ、ご自身もぶどうの木だとしています(ヨハ15:1)。パリサイ人の企んでいたことが図星だったため、彼らは怒り、イエス様を捉えようとします(46)。人はずばっと心の中を言い当てられると、恥をかかされたと思うものなのです。