神殿を指して誓う

マタ23:16「わざわいだ。目の見えぬ手引きども。おまえたちは言う。『だれでも、神殿をさして誓ったのなら、何でもない。しかし、神殿の黄金をさして誓ったら、その誓いを果たさなければならない」
確かに何かを誓うときに、そこらへんの安物を指して誓うよりは、高価な純金を指して誓ったほうが真実味があるでしょう。より権威のあるものの前で誓ったほうが誓いの価値が高まるというものです。そうやって考えるなら、祭壇よりもその上の供え物(18)、神殿よりもその中に住まわれる方(21)、空ではなく神の御座とそこに座しておられる方(22)を指して誓うほうが誓いの心構えが違ってきます。しかし、主の名によって誓うことだけは気をつけなければなりません。神と契りを交わすことなど人間には不可能だからです。それを証明するために律法はあると言えます。パウロによれば律法は完成させるものではなく罪の意識を生じさせるものです(ロマ3:20)。達成しないもののために誓いを立てるのは理不尽な考え方です。「ひとりではできません。主をお助けください」という態度になるまで何度でも主の試練は続くでしょう。主が一緒にいたいと思える人は、心砕かれた人であり、へりくだった人だからです(イザ57:15)。律法学者のように何かに固執して、それを守らなければならないという思いこそ、サタンから来る誘惑の手だと思います。