いちじくについて

エレ8:13「わたしは彼らを、刈り入れたい。―主の御告げ―しかし、ぶどうの木には、ぶどうがなく、いちじくの木には、いちじくがなく、葉はしおれている。わたしはそれをなるがままにする」
エス様は実際にいちじくの木にいちじくがないのをご覧になっています(マタ21章、マコ11章)。イエス様もまたそのときに「空腹を覚えられた(マコ11:12)」とあり、いちじくの木から収穫を得て食べたいと思われ、この「刈り入れたい」ということばとリンクしています。またルカではぶどう園の主人の話としていちじくが登場しています(ルカ13章)。その中ではぶどう園にいちじくを植えさせ、3年間待ったが実がならないことに腹を立てる主人がいます。3年間がイエス様の宣教した時間だと考えると、いちじくの木はイスラエルに例える人も多いようです。しかし、いちじくを呪ったとするならちょっと話は変わってきます。マルコでは「根まで枯れていた(マコ11:20)」となり、これ以降実をつけないどころか存在さえなくなってしまう記述が残されています。呪って、根まで枯らしたとなると、復活は期待できません。これから救いを完成させ、多くの人の命を救おうとしているときに自分の民を根絶やしにするのもピンと来ない話です。神が選ばれた民にはそれだけの期待があったのかも知れませんが、多くの預言書の中で最後に奮い立たされるのはユダヤ人たちだというのがわかっています。同時に新しい命を得た人は神の期待も背負っていることを学ばなければなりません。