わざわいを思い直す

エレ18:8「もし、わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら、わたしは、下そうと思っていたわざわいを思い直す」
主は2つの相反することをおっしゃっています。「わざわいを思い直す」と「しあわせを思い直す(10)」の2つです。どちらも神が与えた条件を満たされたときに行なわれるものです。それは「もし」ということばから始まり「わたしがわざわいを予告したその民が、悔い改めるなら」という条件と、「わたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら(10)」という2つの条件です。神の選ばれた民には他の選択肢はありません。神に従うか、従わないかはユダヤ人たちが決めることです。神ならば人の心を操作して、従うようにもできたはずです。しかし、創世記に人が造られたときから、神は人の判断に介入なさろうとはしませんでした(創3章)。人が決めた決定を強引にくつがえすこともできたでしょう。できたはずなのにしなかったことが神の御心なのです。主は陶器師を例にとり、作った陶器を一度壊し作り変えることは陶器師の自由ではないか…とエレミヤに告げます(6)。自由な心を持ったからといっても、造り主に逆らっていいという理由にはなりません。どんなに貧乏でも健康がすぐれなくても、それが神から離れる口実になってはならないと思います。