もう主の名前で語るまい

エレ20:9「私は、「主のことばを宣べ伝えまい。もう主の名で語るまい」と思いましたが、主のみことばは私の心のうちで、骨の中に閉じ込められて燃えさかる火のようになり、私はうちにしまっておくのに疲れて耐えられません」
ベニヤミン出身のエレミヤとしては(37:12)、ベニヤミンの門につながれたことは非常に屈辱だったようで、かなり弱気の発言をしています。もう嫌だ、預言者を辞めたいともとれるエレミヤの言葉は、自分の生まれた日までも呪い(14)、その日自分が生まれたことを知らせた人までもその対象にする有様です(15)。それでも主の選ばれた預言者の心の中では、主のことばが沸々と沸き立ち、燃えさかる火のようになり、エレミヤのうちにしまっておくことができないほどだと告白しています。若いエレミヤにはまだ真の預言者としての自覚がなく、「私は労苦と苦悩に会うために胎を出たのか。私の一生は恥のうちに終わるのか(18)」と嘆いています。パウロはテモテに「キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(2テモ3:12)」と教え、イエス様ご自身も「義のために迫害されている者は幸いです(マタ5:10)」だと言われています。この世にあって神を信じる者と迫害は切り離せない関係であり、エレミヤはイザヤ、エゼキエルが神に従ったようにはできなかったのです。それでも彼の心はみことばの炎が燃え続け、口にしないわけにはいきませんでした。