どうやって主を礼拝するか

2王17:29「しかし、それぞれの民は、めいめい自分たちの神々を造り、サマリヤ人が造った高き所の宮にそれを安置した。それぞれの民は自分たちの住んでいる町々でそのようにした」
主が獅子を送られたのは、イスラエルの民が主に目を向けさせるためです(25)。せっかくアッシリアの王が祭司を呼び寄せて、主への礼拝の仕方を学ばせたのになぜめいめい自分たちの神々を造ったのでしょうか?ある意味イスラエルにとって最後のチャンスだったかもしれません。なぜなら、バビロン捕囚にあったイスラエルの民は失われた10支族として、今でも世界最大のミステリーとされているからです。もし、アッシリア王が命じたとおりに祭司に従って主を礼拝していたら歴史は変わっていたかも知れません。歴史に「たら」「れば」は通用しませんが、聖書を読む側としては歯がゆいばかりです。しかし、イスラエルの民を主に従えなかった情けない人種だと片付けるわけにはいきません。イスラエルの民は現代のクリスチャンのひな形だからです。彼らを笑う前に自分の信仰姿勢を見直し、改める必要があります。どんなに主の近くにいると思っていても、信仰は試され、サタンの誘惑は死ぬまで続きます。大丈夫、だと思っているときに主は来られ、主の試練は始まるのです。