忌みきらうべきことを見るだろう

エゼ8:6「この方は私に仰せられた。「人の子よ。あなたは彼らのしていることが見えるか。イスラエルの家は、わたしの聖所から遠く離れようとして、ここで大きな忌みきらうべきことをしているではないか。あなたはなおまた、大きな忌みきらうべきことを見るだろう」
捕囚によりバビロンにいたエゼキエルは神の霊によって、エルサレムの神殿まで連れて行かれ現状の神殿の内部を見ることになります(3)。王も連行され、エルサレムに残っているのは、疫病で死ぬか、バビロンに滅ぼされるかの人々です(エレ27:8)。主が言われたのはバビロンに連行されても、また復活するチャンスがあるからエルサレムにとどまらず「生きよ」ということでした(エレ27:12)。いまエゼキエルが見ているのは、エルサレムに残った人たちが何をしているかということです。それは主が言われたように忌み嫌うべき内容でした。しかも、それは1つだけにとどまらず、複数の神の偶像があり、それぞれを信じる者たちがそれぞれの方法でまことの神に背を向けて拝む様子でした。これがエルサレムの主の 神殿の中だということに絶句してしまいます。ここまで堕落し、他の神を追い求めるのはなぜなのでしょうか?主がさばきを決断するのにはよほどのことがなければ、そうしなかったはずです。神の隣在があるべき神殿でさえ汚され、しかも他の偶像で満たされるならリセットしたくなるのも仕方のないことだと思います。