なぜエゼキエル神殿

エゼ40:2「すなわち、神々しい幻のうちに、私はイスラエルの地へ連れて行かれ、非常に高い山の上に降ろされた。その南のほうに町が建てられているようであった」
高い山はシオンの山で南のほうにある町をエルサレムと仮定するなら、位置的には理解できます。問題はこのまぼろしが語られた内容を、捕囚後70年にエズラやネヘミヤは参考にしなかったことです。彼らがエルサレムに再び集まったとき礎さえなかったと記録されています(エズ3:6)。エゼキエルの預言はすでにあったはずですが、エズラ、ネヘミヤたちはソロモン神殿のサイズでそのまま復元しようとしました。では、エゼキエルの見た神殿はいつ建てられるのでしょうか?キリストの千年王国のときだと言う人たちもいますし、艱難前のときだと主張する人もいます。どちらにしろ、イエス様の十字架のときに聖所と至聖所を仕切っていた幕はまっ二つに裂けました(マタ27:51)。もはやレビ人の祭司に仕えられ る必要はなくなったのです。クリスチャン一人一人が祭司となり、自らが直接神に向かって祈ることが許された時代に変わったのです。それでも契約の箱を置く神殿の描写が細かく書かれ、至聖所のサイズもちゃんと記されているということには意味があるはずです(41:4)。イエス様以外のいけにえを捧げても、主はお喜びにならないと思います。なぜなのでしょうか?