それでも

アモス4:2「神である主は、ご自分の聖にかけて誓われた。見よ。その日があなたがたの上にやって来る。その日、彼らはあなたがたを釣り針にかけ、あなたがたを最後のひとりまで、もりにかけて引いて行く」
なぜ主は「ご自分の聖にかけて」までも、ユダヤ人が連れて行かれることを誓わなければならなかったのでしょう?主は真実なお方ですから何かに対して誓うことができません。神以外に確かなものはないからです。ただご自分を指して誓うことはできます。誓われた内容がアブラハムのように祝福ならば喜べるのですが、アモスの預言では「釣り針にかけ」て引いて行く、とあります。「もり」や「釣り針」は魚の漁をするときの道具です。自由に水の中でのんきに泳いでいても、あるとき捕らえられ今までの生活は一変します。なぜそうなるかは3節以降に書かれています。主が備えてくださっとことに対し「それでも(6,8,9,10,11」ユダヤ人は主のもとに帰りませんでした。「それでも」は主が最大限努力してユダ ヤ人が救われるように配慮したことに対して、その配慮が無駄に終わったことを指しています。アモスの時代ではまだまだ自分たちが捕囚に遭うことは想像できませんが、それでも主はアモスを通して自分のことばを確かにされているのです。