盲目の獣をいけにえに

マラキ1:8「あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。―万軍の主は仰せられる―」
捧げもののいけにえが傷のないものでなければならないことは律法のごく初めに書かれていることです(レビ1:2)。傷があったり、病気のものを主に捧げるならカインのときのように主は眼を注ごうとしません(創4:5)。主の前で捧げても、その動機や内容を見られています。主は心を見られるので(1サム16:7)、いかに繕ってもそのうわべだけの行為はすぐに見破られてしまいます。一方主が一度言われたことには権威があり、ゆるぎないもので、そのことばが地に落ちることはありません(イザ40:8)。神が捧げたイエス様には汚れもいつわりもなく、真実そのものでした。神が何度もそのようなことをする必要はありません。「イエス・キリストのからだが、ただ一度だけささげられたことにより、私たちは聖なるものとされているのです(ヘブ10:10)」とあるように、イエス様が子羊となり捧げられたことが重要なのです。それを踏まえるなら盲目の獣を捧げることがいかに主に対して失礼なことかがわかります。それは目に見えないからといって、やりたい放題の人間の考えることです。目には見えないけれども主を恐れることが、ひとが学ぶべき最初の知恵だと思います(箴1:7)。