私なら

ヨブ5:8「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう」
これ以降エリファズは、いかに神は偉大で良いことをしてくださるかを説明しています(9-26)。そして「どうだ」と言わんばかりに「私たちが調べ上げたことはこのとおりだ(27)」と締めくくります。まったく正論です。エリファズの言う通りですし、神に尋ねることも正しいことだと思います。しかし、いくら「私なら」と言われても、「私なら」と言うエリファズは家族も財産も失っておらず、さらに健康まで奪われるという経験はありません。ヨブはおそらくエリファズの言ったことの全部を理解していたでしょう。それでも神に尋ね、訴えることができないほど打たれていたことに3人の友人はなかなか気づいてくれません。唯一の救いはヨブには絶対に神を呪ったりしないという姿勢があったことです。がっかりし、うなだれることはあっても神は不変のお方であるという信仰は持ち続けていました。イエス様は「すべての点で、私たちと同じように、試みに会われた(ヘブ4:15)」とあるように、痛みや悲しみを知るために肉体を持たれました。慰めは痛みを知る者だけができることを神ご自身が理解していたからだと思います。