私の公義は

ヨブ29:14「私は義をまとい、義は私をおおった。私の公義は上着であり、かぶり物であった」
ヨブの語ったことが間違いではありませんが、「義」を「キリスト」に変えたならば完璧でしょう。「私はキリストをまとい、キリストは私をおおった。私のキリストは上着であり、かぶり物であった」…救いがある現代ならばこれで神に受け入れられる言葉になり得ると思います。問題はヨブの言う「義」が何を指しているかです。ヘブル語で「義」は「tsedeq(セデック)」で、「公義」は「mishpat(ミシュパット)」で公義は語尾の変化から「私の公義」と訳せます。まだ救いのない時代に自分を義としたり、自分の考えるさばきを正しいとするならちょっと問題です。ヨブは助けるを叫ぶ貧 しい者や身寄りのないみなしごを助け(12)、死にかかっている者ややもめを喜ばせた(13)、と自分の義を自慢げに語っています。たしかに人を哀れみ助けることは神のみ心にかなっていますが、果たして神に対しての信仰はどうだったのでしょう?主は心の中を見られ(1サム16:7)、うわべには左右されません。ヨブがじわじわと自分を正しくし始め、自分の義を正当化しようとしています。