哀れんだのにひどい目に

ヨブ30:25「私は不運な人のために泣かなかっただろうか。私のたましいは貧しい者のために悲しまなかっただろうか」
ヨブにも哀れむ心があったようですが、この章の初めに「私が軽く見て、私の群れの番犬とともにいさせたものだ(1)」と使用人を軽く見ていたことを明かしています。その軽く見た者たちや彼らの子供たちが今度はヨブを軽く見て、あざけり、笑いぐさにしているいるとあります(9)。かつてはそのように貧しい者たちを哀れんでいたのに逆転の立場になってしまったのです。そして今、自分は彼らのために泣き、悲しんだではないかと訴えています。「give and take」の理論なら、その者たちが今度はヨブを顧みてもおかしくないだろう、というヨブの考えです。つばきされ(10)、足をもつれさせ転ばせることは(13)納得がいかないというのです。さらに神に向かって目を留めてもくれない(20)と訴えています。要約すると自分は慈悲深く、哀れんだのに報いがなく、神も答えてくれない、ということになります。ヨブが語れば語るほど、彼のほころびが出てきています。彼の義は次第に「高慢」になりつつあるのです。