もう一度十字架にかけて

ヘブ6:6「しかも堕落してしまうならば、そういう人々をもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、恥辱を与える人たちだからです」
「堕落」のギリシャ語は「parapipto(パラピプト)」で、「落ちる」や「すべる」などの意味があり余す。救われた人たちが、もとの世俗の世界へ戻ってしまい、神への信仰を忘れて教会にも来なくなる場合があります。それでも教会の兄弟たちはあきらめずに祈り、再び信仰を取り戻す例を多く見たことがあります。パウロはそのことを言っているのでしょうか?クリスチャンになったからとはいえ、サタンからの誘惑がなくなるわけではありません。イスカリオテ・ユダはイエス様の弟子であり、財布まで任される信頼の厚い兄弟でしたが(ヨハ12:6)、サタンは彼に入り(ルカ22:3)、金でイエス様を売らせました(マコ14:11)。イエス様は最後の晩餐のときにユダを左の席にすわらせ(ヨハ13 :26)、告白するチャンスを与えましたがユダは悔い改めることができませんでした。ユダの例を見ても、イエス様の救いの手は最後まで差し伸べられていることがわかります。それでも神の手を振り切って世の思いに走るなら、イエス様を十字架にもう一度かけることになるのです。