正しい訴え

詩9:4「あなたが私の正しい訴えを支持し、義の審判者として王座に着かれるからです」
「正しい」はヘブル語で「mishpat(ミスファット)」で、「義」は「tsedeq(セデック)」が使われおり、どちらも聖書に何百回も登場しているよく使われる言葉です。両方とも同じ意味合いですが、さばきが伴う場合に「tsedeq(セデック)」が使われ、一般的に正義や正しいものを指す場合に「mishpat(ミスファット)」が使われているようです。正しさを理解するには、その判断の根拠が必要です。そういう意味では十戒はわかりやすい指針だと言えます。安息日を守らない者は「正しくない」と判断されます。人のものを盗む者も「正しく」ないのです。ダビデは自分は「正しい訴え」をしていると言っています。どういう理由であれ、人から憎まれることは苦しいものです(13)。もし、自分に非がなく、自分を憎む相手が100%悪くても、非難され罵倒されるなら「正義」を貫く意欲が失せてしまいます。それでもダビデは主に感謝し(2)、主をほめたたえることをやめませんでした(3)。目に見える範囲では苦しい状況でも、目に見えない神が正しく判断してくださる…と考えられるのは信仰以外のな にものでもないと思います。