携挙じゃないですよ

マタ24:40-41「そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます」
どうも携挙とここにある取られる女の話がごちゃ混ぜになって理解されている気がします。テサロニケにある、死者がよみがえり、生き残っている者が空中で主と会う(1テサ4:17)ことと、ここに書かれていることは別のように思えます。黙示録にあるラッパのタイミングと(黙11:15)と、この章にあるラッパのタイミングは明らかに違います(31)。自分はひねくれた性格のせいなのか、取り去られた方が良いとは思えません。そんなことはどこにも書かれていないからです。むしろ残された女たちの方が重要なのではないか…と最近思うようになりました。これは個人的な意見なので、賛同できなければ無視して結構です。「レフト・ビハインド」という、小説が数年前に話題になりましたが、本当に主は忠実な者だけを引き上げ、信仰のない残りカスのような人を地上に残してしまうのでしょうか?どうも携挙のイメージが一人歩きしているような感じです。もし「取られ」ることが、前節の「さらわれる」という言葉にかかっているなら、取られた人は水にさらわれ死んだことになります。テサロニケのイメージのゆえに「取られる」は空中に上げられると誰かが勝手に解釈したのが、勘違いの始まりではないでしょうか。