打ち傷

エレ10:15「ああ、私は悲しい。この傷のために。この打ち傷はいやしがたい。そこで、私は言った『まことに、これこそ私が、負わなければならない病だ』」
エレミヤが負わなければならない病とは、捕囚のことです。「私」が主なのかエレミヤなのか、ややこしいですが、エレミヤが預言をしているとき、神の霊が彼に望んでいるので「私」は主ご自身とも取れます。そうするとイザヤの語った「彼の打ち傷によって、私たちは癒された(イザ53:5)」との部分とも符合します。神のみ心に反するなら、裁きを受けます。罪の大きさに関わらず、主の下す裁決は「死」です。もともと罪に大きいも小さいもありません。軽いも重いもないのです。主から離れてしまうなら、ただ死んで裁きを受けるだけです。それでも、自分が受けるべき裁きを、イエス・キリストが身代わりとなって受けてくださったことを信じるなら、神との和解が成立します。「え?たったそれだけで?」と思うかも知れません。しかし「たったそれだけ」じゃないのです。全人類の犯した罪の重さなど計り知れないことでしょう。それをご自分の身に全部背負われて、十字架にかかったのです。神ご自身が人類を作ったことに責任を負われたのなら、私たちはそれに答える義務があります。神を認め、礼拝を捧げましょう。