エゼキエル37章 わたしの霊をあなたがたのうちに
エゼ37:14「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。―主の御告げ―」
ヘブル語で「息」を指す「ruwach(ルアーク)」は、「風」「霊」をも意味します。干からびた骨がつながり、その上に筋、肉、皮膚が覆い人の形を成したとしても、息がなければ、それは人形でにしかすぎません。神は地のちりで人を造りましたが、その鼻に息が吹き込まれるまで、人は生きませんでした(創2:7)。新約の時代になり、イエス様が復活され弟子たちのもとに来たときに、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハ20:22)。旧約の時代も、イエス様の時代も「息」は生きるための大きなヒントとなっています。息がないことは、霊がないことと同じ意味になります。これは70年後の神殿再建の様子を預言しているのではありません。霊が注がれ、集められ、一つのところに住むようになるのは、もっと先のことです。エゼキエルの干からびた骨の預言の最終的なビジョンは「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(27)」というものです。現在のイスラエルに聖書の律法に忠実なユダヤ人は5%にも満たないそうです。「しもべヤコブ(25)」の国に、「しもべダビデ(24)」が君主となるのは私たちがまだ見ていない未来のことなのではないでしょうか。
エゼキエル35章 いつまでも敵意を抱き
エゼ35:5「おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した」
中国の兵法には「遠交近攻」という言葉があり、近隣の国とはなかなかうまくいかないのは、東西を問わずどこでも同じで苦労しています。セイルはエドムのことです。エドムとイスラエルの遺恨は、ヤコブとエサウの長子の売り渡しと(創25:33)、祝福の横取り(創27:33)したことから始まっています。そんな昔のことは忘れてしまえばいいのに、と考えてしまいますが、人の歴史は昔を引きずって生きるものなのです。幕末に討幕にまわった藩は、関ヶ原の戦いで石田三成側についた、いわゆる外様の藩でした。韓国は日本が領土を併合したことをいまだに恨み、100年たとうが200年たとうがこの怨恨は消えません。エドム人もイスラエルと隣の国で、しかも同じアブラハムの子孫なのに敵意を抱き続けました。隙あらばイスラエル、ユダを占領しようと(10)いつも狙っていたのです。赦さない心は、憎しみと怒り、ねたみを引き起こします(11)。主はそれらの憎しみやねたみをそのままエドムに注ごうとしておられるのです。異邦の神を拝み、主から離れていく姿をエドムは見て、主に向かって高慢なこと言いました(12)。それを聞いていた主が、報いを与えないはずがありません。
エゼキエル34章 彼らを養う
エゼキエル33章 アブラハムはひとりで
エゼ33:24「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている』と言っている」
自分たちは多く、しかもアブラハムの子孫だから当然この地に住む権利がある、という意味だと思います。すでに廃墟になっているのに、エルサレムにまだ未練があるようで、必死にしがみつこうとしているように見えます。自分に剣に拠り頼み、忌み嫌うべきことをして、隣人の妻を汚していて(26)、なおかつアブラハムの名を借りてまで、エルサレムに住みたいと願うのは主の思いとは違っています。新約ではイエス様が「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです(マタ3:9)」と言われ、アブラハムの子孫だというだけでは、アブラハムの祝福は受け継ぐことができないことを示しています。パウロはさらに進んで「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい(ガラ3:7)」と語り、神は血筋がどうのこうのと問題視するのではなく、心の中、つまり神を信じる信仰がアブラハムの祝福を受けるのだと説明しています。神が信仰を見られているのはエゼキエルの時代も同じです。ましてや、ほかの偶像を拝み、主が教えなかった忌み嫌うべき行ないを散々しておいて、アブラハムの名を出せばなんとかなるというのは、あまりにも浅はかな考えです。主は今も昔も、心の中を見ておられるのです。