エゼキエル38章 大きな地震が起こる

エゼ38:19「わたしは、ねたみと激しい怒りの火を吹きつけて言う。その日には必ずイスラエルの地に大きな地震が起こる」
聖書の中には地震の記述が何回か出て来ます。地球はいくつかの大きなプレートに分かれており、イスラエルはアラビアプレートとアフリカーシナイプレートの境界にあります。アモスではヤロブアムの時代に大きな地震があったことが書かれ(アモ1:1)、ゼカリヤではユダ王ウジヤの時代に地震があったことが書かれています(ゼカ14:5)。仮に、この2人の王の間に地震がなかったとするなら、ヤロブアム(BC930年ごろ)とウジヤ(BC790年ごろ)との時間差は約140年ということになります。パウロの時代には、パウロとシラスが捕らえられ牢獄にいたとき、大地震が起きた記録があります(使16:26)。パレスチナ地方の大地震は観測され始めてからは、1759年、1837年、1920年と続き、2017年にはイランで大規模な地震があり、イスラエルも影響を受けています。最も古い記録では1034年にパレスチナ地方でマグニチュード8近くの地震があり、これが記録に残るイスラエルで最大の地震だと言われています。主はゴグがイスラエルを攻める日は、主の怒りが達し、ねたみと激しい怒りの中で大地震をもたらすと預言されています(18-19)。終わりの時代に多くの国がイスラエルを目掛けて攻めてくるとき(15)、大地震は大きなしるしとなるのです。

エゼキエル37章 わたしの霊をあなたがたのうちに

エゼ37:14「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。―主の御告げ―」
ヘブル語で「息」を指す「ruwach(ルアーク)」は、「風」「霊」をも意味します。干からびた骨がつながり、その上に筋、肉、皮膚が覆い人の形を成したとしても、息がなければ、それは人形でにしかすぎません。神は地のちりで人を造りましたが、その鼻に息が吹き込まれるまで、人は生きませんでした(創2:7)。新約の時代になり、イエス様が復活され弟子たちのもとに来たときに、弟子たちに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われました(ヨハ20:22)。旧約の時代も、イエス様の時代も「息」は生きるための大きなヒントとなっています。息がないことは、霊がないことと同じ意味になります。これは70年後の神殿再建の様子を預言しているのではありません。霊が注がれ、集められ、一つのところに住むようになるのは、もっと先のことです。エゼキエルの干からびた骨の預言の最終的なビジョンは「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる(27)」というものです。現在のイスラエルに聖書の律法に忠実なユダヤ人は5%にも満たないそうです。「しもべヤコブ(25)」の国に、「しもべダビデ(24)」が君主となるのは私たちがまだ見ていない未来のことなのではないでしょうか。

エゼキエル35章 いつまでも敵意を抱き

エゼ35:5「おまえはいつまでも敵意を抱き、イスラエル人が災難に会うとき、彼らの最後の刑罰の時、彼らを剣に渡した」
中国の兵法には「遠交近攻」という言葉があり、近隣の国とはなかなかうまくいかないのは、東西を問わずどこでも同じで苦労しています。セイルはエドムのことです。エドムとイスラエルの遺恨は、ヤコブエサウの長子の売り渡しと(創25:33)、祝福の横取り(創27:33)したことから始まっています。そんな昔のことは忘れてしまえばいいのに、と考えてしまいますが、人の歴史は昔を引きずって生きるものなのです。幕末に討幕にまわった藩は、関ヶ原の戦い石田三成側についた、いわゆる外様の藩でした。韓国は日本が領土を併合したことをいまだに恨み、100年たとうが200年たとうがこの怨恨は消えません。エドム人イスラエルと隣の国で、しかも同じアブラハムの子孫なのに敵意を抱き続けました。隙あらばイスラエル、ユダを占領しようと(10)いつも狙っていたのです。赦さない心は、憎しみと怒り、ねたみを引き起こします(11)。主はそれらの憎しみやねたみをそのままエドムに注ごうとしておられるのです。異邦の神を拝み、主から離れていく姿をエドムは見て、主に向かって高慢なこと言いました(12)。それを聞いていた主が、報いを与えないはずがありません。

エゼキエル34章 彼らを養う

エゼ34:16「わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う」
これはさばかれたユダヤ人にとって、福音となることばです。ソロモンの堕落以降、イスラエルの民は神との契約を忘れ、主が備えてくださった道を歩まず、主の怒りを買ったのです。バビロンで生き残った者たちは、主から見捨てられたと落胆したと思います。しかし、エゼキエルに授けられた主のことばは、彼らの予想したものとは違っていました。それは「あなたがたは人で、わたしはあなた方の神である(31)」ということばに集約されています。見限られたのではなく、もう一度主を求める機会を与えられたのです。「牧者たち(2)」は、祭司や族長たちのことです。彼らはイスラエルの民を養えませんでした(3-8)。それに対し、主ははっきりと「世話をする(11、12)」「養う(13、14、16)」と言われています。そして最終的には、ひとりの牧者「ダビデ」を起こすと約束されています(22)。もちろん、これがイエス様であることは疑いの余地がないことです。バビロン捕囚が終わり、神殿の再建が始まるまで70年、さらにマラキの時代からイエス様まで400年と約束された牧者の誕生まで相当に長い年月が必要でした。1948年のイスラエルの再建から、70年以上経過した現在、面と向かってイスラエルを攻撃する国はなくなりました。

エゼキエル33章 アブラハムはひとりで

エゼ33:24「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている』と言っている」
自分たちは多く、しかもアブラハムの子孫だから当然この地に住む権利がある、という意味だと思います。すでに廃墟になっているのに、エルサレムにまだ未練があるようで、必死にしがみつこうとしているように見えます。自分に剣に拠り頼み、忌み嫌うべきことをして、隣人の妻を汚していて(26)、なおかつアブラハムの名を借りてまで、エルサレムに住みたいと願うのは主の思いとは違っています。新約ではイエス様が「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです(マタ3:9)」と言われ、アブラハムの子孫だというだけでは、アブラハムの祝福は受け継ぐことができないことを示しています。パウロはさらに進んで「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい(ガラ3:7)」と語り、神は血筋がどうのこうのと問題視するのではなく、心の中、つまり神を信じる信仰がアブラハムの祝福を受けるのだと説明しています。神が信仰を見られているのはエゼキエルの時代も同じです。ましてや、ほかの偶像を拝み、主が教えなかった忌み嫌うべき行ないを散々しておいて、アブラハムの名を出せばなんとかなるというのは、あまりにも浅はかな考えです。主は今も昔も、心の中を見ておられるのです。

エゼキエル32章 アッシリヤとその全集団

エゼ32:22「その墓の回りには、アッシリヤとその全集団がいる。みな、刺し殺された者、剣に倒れた者たちである」
ユダ国はエジプトとアッシリアの中間に位置し、エジプトのパロ・ネコがアッシリアとの戦いに進撃したとき、ヨシヤ王がユダに攻めて来たと思い、迎え撃ちに行き殺されてしまいます(2王23:29)。以降、ユダ国はエジプトの傀儡国となりましたが、バビロンの支配がエジプトまで及ぶと、ユダ国はバビロンの傀儡国となります(2王24:7)。その後覇権はアッシリアからバビロンへと移行し、ユダを含むパレスチナからエジプトに至るまで占領を繰り返していました。史実としてはネブカデネザルがエジプトとシリアをめぐって争った記録があります(BC605年カルケミシュの戦い)。エゼキエルの預言のようにエジプトが完膚なきまで攻め取られることは、歴史書には書かれていません。しかし、エジプトが一時代を築き、強い国であったことは否定できません。ここではエジプトに対する哀歌だとあります。エジプトの行くところは地下の国だとされ(18)、そこにはかつて同じようにメソポタミアの覇者であった、アッシリアの全集団もいるのです。それはイスラエルやユダが他の神に仕え、堕落し、やがて滅びるようになることを見ても、神に対する恐れを持たなかった国々、すなわち「割礼を受けていない者(19)」の集まるところです。

エゼキエル31章 そのこずえは雲の中にある

エゼ31:3「見よ。アッシリヤはレバノンの杉。美しい枝、茂った木陰、そのたけは高く、そのこずえは雲の中にある」
雲の中に達する木は見たことがありませんが、通常、雲が浮かんでいる高さは2-5000メートルほどで、飛行機はその上を飛行するため8000メートル以上の高さで飛びます。雲に達する高さは最低でも2000メートルは必要で、実際にはそのような木は存在しません。世界の最も高いビルは、ドバイにあるブルジュ・ハリファで828メートルあり、現在のギネス記録です。しかし、サウジアラビアが2011年から建設が続けている、ジェッダ・タワーは完成すれば1007メートルとなり、世界では初めて1キロメートルを超える建造物になります。サウジアラビアは、UAEブルジュ・ハリファが完成した2010年の次の年にジェッダ・タワーの建設に着工しており、ライバル意識に火がついた状態です。このようなところにも意地の張り合いがあり、自分こそ世界の覇者だと言わんばかりです。ジェッダ・タワーは、サウド家ビンラディングループが施工業者に選定されており、予算はほぼ1兆円規模だとされています。富があり、世界にその名を轟かせようとするのは今も昔も変わっていません。天にまで届く塔はバベルの塔の頃から(創11:1-9)、人の思い上がった心の象徴として存在していました。