エゼキエル33章 アブラハムはひとりで

エゼ33:24「人の子よ。イスラエルの地のこの廃墟に住む者たちは、『アブラハムはひとりでこの地を所有していた。私たちは多いのに、この地を所有するように与えられている』と言っている」
自分たちは多く、しかもアブラハムの子孫だから当然この地に住む権利がある、という意味だと思います。すでに廃墟になっているのに、エルサレムにまだ未練があるようで、必死にしがみつこうとしているように見えます。自分に剣に拠り頼み、忌み嫌うべきことをして、隣人の妻を汚していて(26)、なおかつアブラハムの名を借りてまで、エルサレムに住みたいと願うのは主の思いとは違っています。新約ではイエス様が「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです(マタ3:9)」と言われ、アブラハムの子孫だというだけでは、アブラハムの祝福は受け継ぐことができないことを示しています。パウロはさらに進んで「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい(ガラ3:7)」と語り、神は血筋がどうのこうのと問題視するのではなく、心の中、つまり神を信じる信仰がアブラハムの祝福を受けるのだと説明しています。神が信仰を見られているのはエゼキエルの時代も同じです。ましてや、ほかの偶像を拝み、主が教えなかった忌み嫌うべき行ないを散々しておいて、アブラハムの名を出せばなんとかなるというのは、あまりにも浅はかな考えです。主は今も昔も、心の中を見ておられるのです。