1サムエル3章 永遠に償うことはできない

1サム3:14「「だから、わたしはエリの家について誓った。エリの家の咎は、いけにえによっても、穀物のささげ物によっても、永遠に償うことはできない」
永遠に償うことができない、と言われても、それをそのままエリに伝えることは死刑宣告に価します。サムエルはまだ主と出会ったことがなく、主とことばを交わしたこともなかったとあります(7)。主と交わした最初のことばがえりに対するさばきの宣告だったのはサムエルにとっては辛いことだったと思います。それでも主から直接声をかけてもらえるのは祝福です。主が二度名前を呼ばれるのはモーセのとき以来です(出3:4)。主が名前を呼ばれるときになぜ2回繰り返すのかはわかりませんが、イエス様は「わたしにむかって「主よ、主よ」と言う者がみな天の御国に入るのでなく(マタ7:21)」と言われているように、人間の側でも呼びかけをするときには2回繰り返すことがわかります。サムエルは初めて聞く主の声がエリの罪について語るのを聞きます。それは息子のホフニとピネハスの悪行を見ても戒めることを怠り、放置しておいたことに対する罪です(13)。つまり戒めないことも神にとっては罪とみなされるのです。子どもが何かいけないことをしても、戒めなければ、主はその怠惰な行為を責められます。エリは自分には神が久しく語られないことを知り、それでもサムエルを呼んだのは主であることを理解できました。まだエリにも主を求める信仰は残っていたのです。

ルツ3章 大麦六杯を量って

ルツ3:15「「あなたの着ている外套を持って来て、それをしっかりつかんでいなさい」と言い、彼女がそれをしっかりつかむうちに、大麦六杯を量って、それを彼女に負わせた。こうして彼は町へ行った」
ボアズがルツを最初に見たのは、ベツレヘムに帰ってきて自分の農地を見回ったときです(2:4)。ルツは自分が外国人だということを自覚していましたから(2:10)、目立たないようにしていたはずです。ボアズは自分の土地をしもべに任せっきりにするのでなく、自らの足で農地を見回り、もし見慣れない働き手がいたならすぐに気づく領主だったようです。そしてルツがモアブの地で夫と子どもを失くしたことを知っており(2:11)、ルツがナオミのもとにいることがわかると(2:6)、できる限りのことをルツにしてあげるのです。この段階でボアズがルツに好意を持っていたかどうかはわかりませんが、ルツがナオミと一緒にベツレヘムに帰ってきたのは、モアブの神でなく、イスラエルの神への信仰からだと知っていたようです。ルツが買い戻しの権利を話したとき、ボアズはルツがイスラエルの神の律法に従おうとしていることを悟るのです(9)。それでもボアズより買い戻しの優先順位の高い親類がいることで、ルツをその場でめとることはしませんでした。ボアズもルツも神の律法を重んじ、神への信仰によって生きる者たちでした。ボアズは他の女たちがルツが寝床に入ったことを悟られないように、一日分の大麦をルツに持たせ畑で作業していたように見せかけました。これもボアズの賢い配慮だと思います。

ルツ1章 マラと呼んでください

ルツ1:20「ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私をひどい苦しみに会わせたのですから」
「ナオミ」の意味は「喜び」ですが、「マラ」は「苦味」を意味します。ヘブル語の単語としてはルツ記だけに登場するものです。ナオミがモアブの地でいかに苦しんだかがわかります。モアブへの移住の判断はナオミの死んだ夫エリメレクのものでした(2)。約10年(4)も経ちナオミが戻ってきたとき、町中の女がナオミを覚えていたことで、同じベツレヘムに住んでいた者でも、その場に留まり飢饉を乗り越えた者たちもいたことがわかります。彼らの祖先ヤコブたちも飢饉をきっかけにエジプトに移り住みました(創46:6)。おそらく飢饉は思ったよりもひどかったのだろうと思われます。それは、ナオミの家族の男性が全員死んだことからもわかります。稼ぎ頭の男たちがいなくなったことで、ナオミ一家は存続の危機に陥りました。ナオミには二人の嫁たちを養うだけの力はありません。彼女たちに実家に帰して自分もベツレヘムに帰ろうと心を決めます(15)。ここでナオミとルツの間に信仰のギャップが生まれていることに気づきます。ナオミは神は自分から夫も息子も取り去られたと思い、自分は「喜び」ではなく「苦味」と名乗ろうとしています。一方、ルツはナオミの神には困難な状況でも、頼る者に手を差し伸べられる神だと信じたのです。

詩篇119篇176節まで あなたの仰せを忘れません

詩119:176「私は、滅びる羊のように、迷い出ました。どうかあなたのしもべを捜し求めてください。私はあなたの仰せを忘れません」
最後の8節、すなわち169節から176節はヘブル語のアルファベット最後の文字「タウ」から始まる詩です。英語の「T」の発音に似ています。最後の176節に歌い手が何を選んだかは気になるところですが、176節の歌い始めは「taah(タアー)」となっています。意味は「誤る」とか「正しい道からそれる」というものです。自分は正しい道を見つけられず、迷っています…という歌い出しです。最後には「あなたの仰せ」となっていますが、ヘブル語では「mitsvah(ミツバー)」が使われており、「律法」のことを指しています。日本語では「ミツワー」とも表記し、「戒律」と訳されています。ここで歌い手が単純に主が言われたいくつかのことばを思い出し、それを忘れませんと歌っているのではなく、トーラーに書かれてある613のミツワーを忘れないと歌っているのです。英語では「mitsvah」を「commandments」と訳しており、十戒は「ten commandments」でまさしく、主の律法のことです。119篇の最後が主が人にくださった律法のことばを忘れません、と締めくくられているのは、今までの長い詩の最後としてふさわしいものだと思います。たとえ道を迷ったとしても、心に主からのミツワーが備わっていれば、正しく導いてくださるでしょう。

詩篇119篇152節まで あなたのさとしは奇しく

詩119:129「あなたのさとしは奇しく、それゆえ、私のたましいはそれを守ります」
129節から136節までは、ヘブル語のアルファベット17番目の「pe(ぺ)」から始まる単語でつづられています。129節では「pele(ペレ)」が使われ「奇しい」の意味です。以下、130節「pethach(ペサック)」「開く」、131節「peh(ぺー)」「くち」、132節「panah(パナー)」「向ける」、133節「paam(パアム)」「歩み」、134節「padah(パダー)」「贖い」、135節「paniym(パニーム)」「御顔」、136節「peleg(ペレグ)」「川」となっています。英語の「p」の発音と同じなのでわかりやすいですが、これらを歌い始めに持ってくるのは、かなりヘブル語に精通していなけばできません。129節を見るならば、まず「奇しい」と歌い始め、それは「あなたのさとし」のことだと続きます。さとしは「諭し」のことで、行ないや言葉について正しい態度や使い方を教えることです。それは「奇しい」、英語訳では「wonder」となっており、「驚異」であり「驚嘆」すべきものだと歌っています。次の節では「みことばの戸が開き(130)」、「口を大きく開けて(131)」と「pe(ぺ)」を繰り返し使って主を賛美しています。119篇の真骨頂と言える部分です。

詩篇119篇128節まで 私の道の光です

詩119:105「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」
詩篇119篇でもっとも有名な節が105節です。105節からヘブル語のアルファベット「ヌン」から始まる詩が8節続きます。「光」はヘブル語の「ore(オー)」が使われ、創世記の最初「光があれ」と言われた神のことばと同じ「光」が使われています。詩篇119篇の中で「光」が使われているのは105節と130節の2箇所だけです。夜の暗い道を光なしで進むのは危険なことです。もし、行く先を光で照らしてもらい、歩むべき道を示してもらえるのなら、迷うことはありません。歌い手はその光は「あなたのみことば」だと歌っています。人生がうまくいき、何の心配もない人もあるいはいるかもしれませんが、生活の中で大きな壁に突き当たることは珍しくありません。そのようなとき頼るべきものが「神のみことば」です。歌い手は「私はいつもいのちがけでいなければなりません(109)」と悲痛の決意を歌っています。そして「しかし私はあなたのみおしえを忘れません(109)」と続きます。自分の行く道を照らしてくれるはずの光でさえ、ちょっと見誤ると道をはずれてしまうのです。しかし、歌い手は迷わず(110)、神のさとしを自分のものにできたのです(111)。それは喜びとなり(111)、いつまでも主の定めに従う決心をするのです(112)。

詩篇119篇 天において定まっています

詩119:89「主よ。あなたのことばは、とこしえから、天において定まっています」
89節からはヘブル語12番目のアルファベット「lamed(ラメッド)」から始まる詩になっています。これから96節まですべて「lamed」から始まる単語で詩が続きます。最初は「aowlam(オラーム)」で、「永遠」とか「昔」という意味があります。これに接頭詞のようにアルファベットの「lamed」が付き「laowlam(ラオラーム)」が89節の最初の歌い出しです。これに対することばが「dabar(ダバー)」で、「ことば」を指します。つまり神のことばは、はるか昔からある、新改訳では「とこしえから、天において定まっています」という意味になります。英語訳NIVでは「stands firm」で、「固く立っている」、すなわち動くことなく、固定されているという訳になります。神のことばは、アブラハムモーセに語られたものを想像しますが、もっと以前から神のことばは存在し、天において確立しており、これが崩れることは絶対にありません。詩の中にこういう真理をいとも簡単に、しかも「lamed」を使って表現しているのは感嘆するしかありません。この89節は「あなたの言われることは測れないほど広いのです(96)」にそのまま直結するものです。神の言われることばは無限に広がります。