エズラ1章 私にゆだねられた

エズ1:2「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、主は、地のすべての王国を私に賜わった。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた』」
「霊を奮い立たせた(1)」とありますが、イザヤ書では主が直接クロス王に語られた内容が書かれています。それはクロス王に対し「わたしの牧者、わたしの望む事をみな成し遂げる』と言う。エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる』」とあり、霊が注がれると同時に主のことばがクロス王に降ったとだと思います(イザ44:28)。同時にどんなに険しい地があろうとも平らにし、とびらを開き閉じさせないようにし、青銅のとびらも鉄のかんぬきもへし折る(イザ45:1-2)と書かれ、さらに「わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える(イザ45:3)」とあり、この仕事のために主があらかじめ多くのことを用意されていることがわかります。そのためエルサレムに向かう初回の隊が運んだ金銀は5400あったと書かれています(11)。そして、初回にエルサレムに戻る人数は42,360人でした(2:64)。クロス王の命令が下ったとき、ユダヤ人たちが驚き迷う様子は描かれておらず、あたかも前から知っていたかのような期間の準備がされています。これらすべては「わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ(イザ45:3)」とあり、クロス王に主こそ神であることを知らしめるためでした。

3ヨハネの手紙8節 もてなすべきです

3ヨハ8「ですから、私たちはこのような人々をもてなすべきです。そうすれば、私たちは真理のために彼らの同労者となれるのです」
おそらくパウロのような、各地を渡り歩き伝道している人のことを指しているのだと思われます(6)。もし、この手紙の時代がイエス様が生きていた時代とあまり変わらないのであれば、旅をしてどこかに泊まろうとするなら、まず足を洗う水で僕などが足を洗ってくれるのが礼儀だと思います。イエス様もあるパリサイ人に食事に招かれましたが、足を洗う水は出されず、代わりにある女が涙で足をぬらし、髪でぬぐうという話があります(ルカ7:36-38)。もてなしとは、旅の労をねぎらう行ないのことで、それは主のために働いている者を認める行為でもあります。この手紙にあるようにデオテレペスは、全く真逆の行為をしていました(10)。あれほど互いに愛し合いなさいと言ってきたヨハネにとって、この男の存在は頭の痛い問題だったと思います。どんな組織でも、自分のやりたいようにしかできない人は一人や二人いるものです。いまや「長老」となり(1)、唯一生きていたイエス様から直接教えを受けたヨハネでも、教会が完璧に愛に包まれることを見届けられません。それでも愛を呼びかけ、愛する兄弟たちを励まし、神の前で良い行ないをするように願っています(11)。良い行ないは神から出て、悪い行いは神を見たことのない者なのです(11)。

2ヨハネの手紙5節 初めから私たちが持っていたもの

 

2ヨハネ5「そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです」

この名を明かされていない夫人は、1節では定冠詞「ho(ハー)」が使われており、教会でヨハネと親しかった人だったと思われます。ここでも「互いに愛し合いなさい」と書かれており、それは最初の手紙にもある「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです(1ヨハ3:11)」と符合します。さらにこれは新しい命令ではなく、初めから聞いていたことだと書かれ、これも最初の手紙と一致します。ヨハネ福音書でイエス様が3回も繰り返した「互いに愛し合うこと(ヨハ13:3415:1215:17)」は、その後のヨハネの人生のテーマになったようです。ヨハネの最初の手紙の中では5回も「互いに愛し合う」ことが書かれ(1ヨハ3:113;234:74:114:12)ヨハネがキリストを伝えるときに真っ先に挙げた大切なテーマだと言えます。そして、この手紙の中でも「初めから私たちが持っていた」とあり、世の惑わしが襲ってきたとき、最初の教えである「互いに愛し合う」ことを思い出すなら惑わされずに済むと伝えています(68)。愛は「御父の命令に従って歩むこと(6)」で、その命令とは「愛のうちを歩むこと(6)」です。ヨハネの手紙には、「愛」ということばがあふれ、いかにイエス様に愛されていたかがわかります。

1ヨハネの手紙5章 すでにかなえられた

1ヨハネ5:15「私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです」
神はどんなことでもできます(マコ10:27)。願うことが自分の都合によるものなら、神も困ってしまうでしょう。ヨハネは「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら(14)」という条件付きでこのことを言っています。山上の垂訓では、祈るときには、偽善者のようであってはならない(マタ6:5)とイエス様は言われました。むしろ、祈るときには自分の奥まった部屋で戸を閉めて祈るべきだと勧めています(マタ6:6)。さらに、ことば数が多ければ聞かれると考えるのも良くないことです。しかし、祈りの応えには時間のかかるときもあります。数分、数時間でかなえられるときもあれば、何日、何ヶ月、何年にも及ぶことがあります。それでも、信仰を持って山に向かって海に入れと言うなら、そのとおりになると言われています(マタ21:21)。モーセが海を分けたときも、杖を差し伸ばしたあと、終日終夜地の上に東風を吹かせた(出10:13)と書かれています。映画のように、あっという間に水が別れたのではなかったのです。祈ってから、どのぐらい待てば願いは叶えられるのかは、その人の忍耐に応じて主が叶えてくださるのだと思います。何も変化がなくても、主がすでに叶えてくださったと信じることが必要です。

1ヨハネの手紙4章 イエスを告白しない霊は

1ヨハネ4:3「イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです」
1コリントへの手紙13章は愛の章として有名ですが、このヨハネの手紙4章も神の愛を説いた章です。最初に「霊」について警告されています。それは霊的な存在がヨハネの生きている時代からあったことを示しています。福音書の中には霊に縛られた者たち(マタ10:1、マコ1:23など)が、登場し人を苦しめている様子が書かれています。ヨハネは目に見えない霊が神からのものかどうかを吟味するように言っています(1)。イエスを告白することは、一つのたとえです(3)。それよりも、互いに愛し合うことが大事だと書かれています。この章だけでも、「愛する者たち(1)」を含めて30回も「愛」が使われています。読む者にとっては、愛を意識しないわけにはいきません。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです(8)」とあるように、霊を見分けるには愛を確かめれば良いでしょう。人を分けへだてなく受け入れ、寛容であり、親切にできるなら(1コリ13:4)、愛が感じられます。何よりも、その人がキリストを主として告白しているなら、神からのものだと判断できるでしょう。霊を見分ける力はなくても、愛し合うことならできると思います。偽善でなく、本当に愛することは神の愛を持つ人です。

1ヨハネの手紙3章 互いに愛し合うべき

1ヨハネ3:11「互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです」
ヨハネ福音書の中で最後の晩餐のときに、イエス様が言われたのは「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい(ヨハ13:34)」というものでした。ヨハネはこのときに、イエス様の右に座っていました(ヨハ13:23)。この後、イエス様は繰り返して互いに愛し合うように言われています(ヨハ15:12、15:17)。ヨハネ福音書ヨハネの手紙には、ヨハネならではの言い回しが共通してあります。この「互いに愛し合うこと」はその中の1つです。ギリシャ語では「agapao allelon(アガパオ アレロン)」となり、イエス様の言われたのと同じ単語が使われています。英語では「from the beginning」とあり、この戒めが、「最初から聞いている」と書かれています。それはヨハネがキリストを伝えるときに最初に教えた内容だと思われます。ヨハネ福音書の中でも、読む者が必ず目を留め、心に刻む言葉です。そして、ヨハネキリスト者に宛てたこの手紙の中でも、最初に福音を聞いたときから、あなたがたはこの教えを耳にしているはずだと言っています。ヨハネの思い描くイエス様は「愛」そのものだったのです。

1ヨハネの手紙1章 いのちのことばについて

1ヨハネ1:1「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」
ヨハネは自分が見聞きしたことを何度も証していたと思いますが、この手紙で再度「いのちのことば」について語ろうとしています。手紙が誰に宛てて書かれたのかは最後まで出てきませんが、「私が神の御子の名を信じているあなたがたに対して(5:13)」とう表現があるので、すでにキリストを信じている者たちへ書かれたことが推測できます。文面から見ると、同じ教会に属していたか、以前に交わったことがある教会員に宛てたものかもしれません。ヨハネの文章には「ことば」を強調する特徴があります(ヨハ1:1)。ことばはギリシャ語「logos(ロゴス)」で、いのちは「zoe(ゾエー)」です。ヨハネ福音書の中でもイエス様の存在を「ことば」として見なしており、この手紙でも書き出しは「ことば」についてです。そして、「もし」という仮定形が多く使われており、これもヨハネの手紙の特徴と言えます。「もし」のギリシャ語は「ean(エアン)」で、手紙の中で最低でも12回登場します。それはキリストを信じる者たちの中にも、まだ学べていないことがあり、それを「もし」ということばを使って強調しているのだと思います。そして、まだ知らないことを知ってもらい「私たちの喜びが全きものとなるため(4)」という目的が書かれています。