私の口に触れて

イザ6:7「彼は、私の口に触れて言った。「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、あなたの不義は取り去られ、あなたの罪も贖われた」」
多くの人は8節の「ここに、私がおります。私を遣わしてください」を召命のことばとして与えられています。しかし、イザヤが「ここに私がおります」と言えたのは罪が贖われ、自分はもう汚れていないと確信したからです。その方法はとても変わっています。まずイザヤはおそらく天の神の御座まで引き上げられ(1)、さらにどこでその名前を知ったのか「セラフィム」という、聖書で唯一ここにしか登場しない生き物が出てきます(2)。そして祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭(6)をイザヤのくちびるに当てて、不義が取り除か れ、罪も贖われたと宣言します。口による罪がいかに多いかがわかることばです。新約でヤコブも手紙の中で舌を制御するように勧めていますが(ヤコ3:10)、「舌を制御することは、だれにもできません(ヤコ3:8)」とも言っています。イザヤはくちびるを聖められ、その結果罪が贖われています。神の召命に応えるためにはまず、ことばを制御できる忍耐力と自制心が必要だという教えがここにあります。