イザヤ32章 上から霊が私たちに注がれ

イザ32:15「しかし、ついには、上から霊が私たちに注がれ、荒野が果樹園となり、果樹園が森とみなされるようになる」
「いばら」「おどろ」(13)が「果樹園」や「森」になる(15)ためには「霊」が必要です。「霊」が注がれてることによって、15節以降の内容がガラッと変わっています。「しかし、ついには」のヘブル語は「'ad(アド)」が使われ英語では「until」と訳されています。「のんき」で「うぬぼれ」の女たち(9)が神のことばに耳を傾けなければ(9)収穫がなくなってしまいます。その猶予は「一年」です(10)。すべては「わたしの民」を平和な地に導くためです(18)。女たちの力だけでは良い収穫は期待できないとも読め、それは自分の力に頼ろうとする比喩が書かれているように思います 。だから「霊」が注がれる必要があるのです。仮にその場が草木の育たない荒野であっても、多くの実をつける果樹園のようになる、というのは教会の開拓、伝道のようにも思えます。すべては「霊」が注がれてから変わっていくのです。