ピリピ3章 きっすいのヘブル人で

ピリ3:5「私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人」
ある人は良家の生まれで、最高の大学を出て、優良企業に就職し、などと自慢する人もいるでしょう。パウロも血筋といい、育ってきた環境といい、ユダヤ人ならば誇れる立場にあったと思います。しかし、それは十字架の赦しの前では何の意味もなさないことを悟るのです。今まで自慢に値する自分のことが、キリストのすばらしさのゆえに、すべて「損」だと感じるようになったとあります(8)。「損」はギリシャ語「zemia(ゼミア)」が使われており、「失う」とか「痛手」という意味があります。損得で福音が語られるのも変な感じですが、イエス様も「たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら何の得がありましょう(マタ16:26)」と言われ、やはり損得のことを語られています。全世界を得て、いのちの失うなら相当な皮肉になります。いのちが与えられたから、神を知ることができるのです。いのちのない者には神はいません。地上で満ち足りた人生を送った人も、惨めな人生だった人も、死ぬなら神の前に立ちさばきを受けるようになるのです(ヘブ9:27)。ソロモンは愚かな者と知恵ある者が行き着くところが同じなら、それはむなしいと語っています(伝2:15)。創造主を知り、創造主と歩む人生なら虚しくないのではないでしょうか。