再教育

ロマ3:20「なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです」
キリストの時代が2000年だとすると、モーセ以降約2000年が律法の時代になります。長い時間をかけて人の罪とその購われ方を学習しなければなりませんでした。いけにえは罪をあがなうものですが、罪を赦されたものが罪を犯さなくなるわけではありませんでした。そういう意味では「義人はいない」という言葉は本当だと思います。それでは律法は何のためだったのでしょうか?それはパウロの言うように、罪を浮き彫りにする役目があったのだと思います。パウロはむさぼるな、と言われなければむさぼりを知らなかったと語っています(7:7)。しかし、むさぼりがなくなるわけではありません。罪は人の間に残っているのです。ローマ人はユダヤ人と隣接した地域に住んでおり、ユダヤ人の慣習などを目にしたものも多かったはずです。それゆえにローマ教会では、割礼をすることでイエス様と同じユダヤ人に近づこうとする者もいました。彼らに、そのような外見だけの信仰を捨てさせるのはとても時間がかかったことだと思います。その第一歩として、ユダヤ人のように律法を守れば、イエス様に近づけるのではないかと考える者たちの考えを変える必要がありました。律法を守ることが救いではない…これがパウロの最初のメッセージです。