リッチの代償

黙3:17「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない」
この説を読むとき、イエス様のもとに来た金持ちの青年を思い出します。彼は殺人、姦淫、盗み、偽証から離れ、父母を敬い、隣人を愛していました(マタ19:18-19)。金持ちが高慢になることは仕方のないことですが、この青年は高慢はおろか十戒の人に関する戒めはすべて守り神に喜ばれる者だった思います。しかし財産を貧しい者に施しなさいというイエス様の言葉に答えることができませんでした。裕福さは「その場にとどまりたい」という誘惑を受けやすい状態です。明けの明星とまで言われたルシファーは、自分のポジションを手放さないどころか、主の高みの域まで上ろうとしました(イザ14;12)。逆にイエス様は神の御姿にもかかわらず、神のあり方を捨てることはできないとは考えませんでした(ピリ2;6)。上の立場に立つものが、そのポジションを手放すことは難しいのです。そういう意味において、金持ちには同じ原理が働くのだと思います。また、ここで言う「自分が富んでいる」と勘違いしている人には、もっと厳しい現実が突きつけられます。財産はあっても心は貧しいなら、富は何のためにあるのでしょうか?自分が楽しむだけに富が与えられていると思うなら、哀れで貧しく、盲目で裸なことに気づいていないのです。