彼は罰せられ

イザ53:4「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと」
「彼」がイエス様のことを指しているのは明白ですが、「神に罰せられ、神に打たれ」とあります。ここでは「naga(ナガァ)」という単語と「nakah(ナハァ)」という言葉が重ねて使われており、どちらも「打つ」という意味で「nakah(ナハァ)」はより強い打撃を意味しています。主に従い通したイエス様が何かしらの罰や懲らしめを受けるのは無理があります。イエス様が十字架に架かるためには、さまざまな神の知恵が働かなければなりませんでした。そのひとつはイエス様の洗礼です。イエス様はあえて悔い改めのバプテスマヨハネから授かったのです。それは「今はそうさせてもらいたい(マタ3:15)」という言葉からも分かるように、主に従い自らを罪人のひとりとして数えられるためでした。さらにイエス様の裁かれた罪状は、「ユダヤ人の王(マコ15:26)」というもので、ローマの総督も大祭司もイエス様の具体的な罪を見つけられず、王と名乗って世間を騒がせた罪人としたのです。人から虐げられる心の痛みとむち打ちによる肉体の痛みの両方を自らがかぶり、父なる神から目をそらされることも甘んじて受けたイエス様だからこそ、すべての人を赦す権威が与えられたのです。