エレミヤ49章 あの杯を飲むように

エレ49:12「まことに主はこう仰せられる。「見よ。あの杯を飲むように定められていない者も、それを飲まなければならない。あなただけが罰を免れることができようか。罰を受けずには済まない。いや、あなたは必ずそれを飲まなければならない」」
罰を受けることが「杯を飲む」と例えられ、杯を飲むことは、罰を受ける意味だとわかります。イエス様も天の父なる神から杯を受けなければならないことがありました。それはエドム人だけの罪ではなく(8)、全人類の罪の象徴でした。さすがにイエス様は「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください(マタ26:39)」と訴えていますが、すぐに「わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください(マタ26:39)」とすべてを主に委ねています。マタイでは2度目の祈りのときにも「どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください(マタ26:42)」と、自分が罪人として主に罰せられることを受け入れる祈りをしています。それは、杯を飲むことよりも、罪のために死ぬ際に一瞬でも父なる神が目をそらせることを嫌がったからだと思います。それほどイエス様は父なる神を愛し、たとえ一瞬でも父と共にいない時間が耐えられなかったのです。エレミヤはこの杯を飲むことは「わたしは自分にかけて誓ったからだ(13)」と並々ならぬ、主の決意を伝えています。