何を蒔くのでしょう?

詩97:11「光は、正しい者のために、種のように蒔かれている。喜びは、心の直ぐな人のために」
「種をまく」の動詞「zara(ザラー)」が、光「'owr(オー)」と喜び「simchah(シムハ)」にかかっており、新共同訳では「神に従う人のためには光を、心のまっすぐな人のためには喜びを、種蒔いてくださる」とあり、口語訳では「光は正しい人のために現れ、喜びは心の正しい者のためにあらわれる」となっています。「蒔く」という動作が「光」かかるのか「喜び」にかかるのかは意見が分かれるところですが、もし両方にかかるのなら、「正しい者」と「心の直ぐな人」に対して平等に「光」と「喜び」が「蒔かれる」とも訳せます。また「zara(ザラー)」を「蒔く」と訳さず、「散布する」とか「撒き散らす」のように遠方にもその影響が及ぼすようなイメージで訳するなら、世にいる多くの正しい者や心の直ぐな人たちが、主の与える「光」と「喜び」をまんべんなく受け取ることができることを語っているようにも思えます。それはこの詩篇を歌った人が、誰を喜び、こおどりするほどの感謝を捧げなければならないことを知っていたからにほかならず(1、8)、全世界は主を喜び、主のさばきに歓喜しているのです。