イスラエルの子らの中で住む

エゼ43:7「その方は私に言われた。「人の子よ。ここはわたしの玉座のある所、わたしの足の踏む所、わたしが永遠にイスラエルの子らの中で住む所である。イスラエルの家は、その民もその王たちも、もう二度と、淫行や高き所の王たちの死体で、わたしの聖なる名を汚さない」」
エゼキエルはかつて見たケバル川のほとりでのまぼろしを覚えていました。それはエホヤキンが捕囚となって5年目のことであり(1:2)、エゼキエルが再び神々しいまぼろしに出会うのは捕囚から25年目のことです(40:1)。40章から続く一連の神殿の描写の中に突然主の栄光は現れます(2)。そして神殿の目的を明らかにするのです。そこには玉座があり、イスラエルの子らと永遠に住むところだと書かれています。クリスチャンから見るなら古いタイプの礼拝、購いの方法ですが、イスラエルの子らは主が選ばれた特別な民族です。今は異邦人が福音を信じるために、あたかも神に捨てられたような感じですが、最後は主の愛によって再び集められる存在なのです(ロマ11:28)。そのときには神殿が設けられ、二度と淫行や高き所の王たちの死体で主の聖なる名を汚すことはないとあります。祭壇が作られ、そこでは雄牛が捧げられ、その血を祭壇の四隅にある角に塗らなければなりません(20)。主の律法にあるとおりです(出29章)。すべての人類のためにイエス様が罪を購われ、信仰によって生きる…というキリスト教の本質とは別に神殿は建てられるのでしょうか?