つばきをかけられても

イザ50:6「打つ者に私の背中をまかせ、ひげを抜く者に私の頬をまかせ、侮辱されても、つばきをかけられても、私の顔を隠さなかった」
福音書の中にはイエス様がひげを抜かれた記述はありませんが、ひげが権威の象徴であり、男性がひげを剃ることは、頭や足の毛を剃ることと同様に特別な意味を持っていました(7:20)。アモン人の王はダビデの家来を捕らえて、ひげを半分剃り、衣を半分に切って尻のあたりまで露出した格好で送り返しました(2サム10:4)。当時としては屈辱的な扱いです。つまり侮辱の中にあってもイエス様は耐え抜いたという意味になります。捕らえられ、自由を奪われることは何をされるかわからないということです。それでも立ち向かわなければならないときがあるのです。イエス様はつばきをかけられても(マコ14:65)、弁明することなく、祭司たちのさばきに身をゆだねました。恥ずかしい姿で、民衆の前であざけられるのは本来のイエス様の在り方ではありません。主はほめたたえられるべきお方です。それまでも捨てて、罪のためにご自分を捧げなければならなかったのは誰の責任なのでしょうか。生活が担々と進む中で、立ち止まりなぜ命が与えられ、神が存在するのかを考えることが必要です。