そうだ

士21:19「それで、彼らは言った。「そうだ。毎年、シロで主の祭りがある。」―この町はベテルの北にあって、ベテルからシェケムに上る大路の日の上る方、レボナの南にある―」
「そうだ」に相当するヘブル語は「hinneh(ヒネー)」で、「見よ」という感嘆詞で英語では「look」とか「behold」の単語が使われています。まるで今気づいたかのような言いようですが、どうしても200人足りない花嫁を踊り子たちの中からさらってもいいという発想はどこから出てきたのでしょうか?シロの娘たちも言わば自分たちの身内のはずです。自分たちの娘は嫁がせないけれども、誘拐したならしょうがないよね…というのはいかがなものでしょうか。しかも「もし、女たちの父や兄弟が私たちに苦 情を言いに来たら(22)」…と言い訳の世話までする周到さです。この時代に話し合って解決という方法はなかったように見えます。主の律法がある以上、それに従いつつ、肝心なことになると、自分たちの勝手な解釈をして解決してしまうというのは、はなはだ主をないがしろにしているとしか思えません。聖書のここは受け入れるが、他の個所は自分には厳しいから従えない…というのは、あまりにも利己的です。士師記イスラエルの失敗を伝えているのでなく、現代のクリスチャンへのメッセージだと思います。