詩篇127篇 矢筒をその矢で満たしている人は

詩127:5「幸いなことよ。矢筒をその矢で満たしている人は。彼らは、門で敵と語る時にも、恥を見ることがない」
「むなしい」はソロモンが伝道者の書で繰り返した人生を嘆く言葉です(伝1:14など)。この詩では、主が建てない家、主の守りのない見張りはむなしく(1)、また、早く起き、遅く寝て、まずい食事を食べたとしても、それもむなしいと書かれています(2)。早く起き、遅く寝て、苦い食事を食べるというのは、自分がよかろうと思って、自分の力に頼って生活しようとする者の比喩だと思います。そんな努力をしなくても主はすでに備えていてくださるとソロモンは歌います(2)。そして詩の内容は子どもに移っていきます。子どもたちのことがなぜ唐突に出てきたのかはわかりませんが、備えの後に続いていますので、子どもが大切な主の備えであることが想像できます。それは「見よ」という強い言葉があることでわかります。ヘブル語では「hinneh(ヒネイ)」が使われ、英語では「behold」が使われています。若い子たちが矢のようだ(4)とあり、若いパワーがあることは敵が来たときでも恥いることがない、すなわち堂々と渡り合えるのだと歌っています。それはイスラエルが子孫を絶やさず、子どもたちに主を伝え、しっかりと次の世代が矢筒に入っていることを意味します。この歌も都上りの歌ならば、主が子どもたちを豊かに与えてくださる祝福を歌っているのだと思います。