それは頭にそそがれる油

詩141:5「正しい者が愛情をもって私を打ち、私を責めますように。それは頭にそそがれる油です。私の頭がそれを拒まないようにしてください。彼らが悪行を重ねても、なおも私は祈ります」
あたかも叱責を喜んでいるようですが、ダビデの基本姿勢だと思います。打たれる相手が悪者なら、打たれ損になります。それは頭に注がれる油でも何でもなく、ただの「とがめ」にしかならないからです。「責め」のヘブル語は「yakach(ヤハーク)」で、「注意する」「非難する」などの意味があります。頭に油がそそがれる人はそうそういません。王や(1サム2:10)、祭司などがそうです(レビ16:32)。そうすると、頭に油をそそぐ人も限られてきます。前任の大祭司か預言者が神の名によって油 を注ぎます(1サム10:1)。ダビデの言う「正しい者」は王の頭に油を注ぐことができるこれらの人たちです。現にダビデはバテ・シェバを奪おうと彼女の夫ウリヤを殺害したとき(2サム11:25)、このダビデの失敗を暴いたのが預言者ナタンでした(2サム12:7)。おそらく、このときのナタンの戒めのことばを思い出してこの歌を歌っているのだと思います。ダビデにとって神からの叱責は、頭に注がれる油に等しいものです。彼自身が再び預言者からの厳しい言葉を聞いたときに、拒むことがないように神に祈っているのです。