愚かで思慮のない民よ

エレ5:21「さあ、これを聞け。愚かで思慮のない民よ。彼らは、目があっても見えず、耳があっても聞こえない」
イザヤでは目があっても見えず、耳があっても聞こえなくするのは主のなさったことだとあります(イザ6:10)。そしてイエス様はイザヤの言葉を引用し、たとえで話すのは彼らの心が開かれず、悟ることがないためだと言われました(マタ13:13)。思慮ある者には見えたり、聞こえたりするものは何でしょうか?聖書では心をかたくなにして、自分だけの悟りに頼ろうとする者には神のことばが心に届かないとされています(イザ6:10)。エレミヤも、イスラエルの民を指して「愚かで思慮のない民」だと言っています。イエス様は「耳のあるものは聞きなさい(マタ11:15)」ある いは「聞く耳のあるものは聞きなさい(マコ4:9)」と言われました。神のことばを聞くためには特別な訓練や技術はいりません。要は心の在り方の問題です。聞こうとする姿勢がなければ、どんな人の語る言葉も耳に入ってこないでしょう。聞こうとする、もっと進んで「聞きたい」という思いこそ、主が求められる姿勢だと思います。神に目を向ければ、今まで見えなかったものでも見えるようになります。奇跡ではなく真実なのです。