主の御目はどこにでもあり

箴15:3「主の御目はどこにでもあり、悪人と善人とを見張っている」
原文では「悪」と「善」を見張っているとなっています。「悪」はヘブル語「ra’(ラー)」で「善」は「towb(トウブ)」です。エデンの園にあった「善悪を知る木(創2:9)」はこの「ra’(ラー)」と「towb(トウブ)」が使われています。主はさばくために、いつも悪いものに目を注いでいるわけではありません。主は「あわれみ深く情け深い、怒るのにおそく恵み豊かである(詩103:8)」とあるように、良いものにも目を注がれ恵みを与えようとなさる方です。神のご計画は善悪を人に学ばせ、その判断のもとに永遠に生きるいのちを与えようとされたのでしょう。しかし、へびの誘惑によって善悪を知る実を先に食べてしまったのです (創3章)。主に結婚ということを教えてもらう前に自分が裸である、ということを知ってしまったのです(創3:7)。それ以来主は人の心が良いことに傾くのか、悪いことに向かうのかを見ておられます。ソロモンは主がすべてのことに目を注いでおられ、良いことにも悪いこともご存知だと理解していました。