律法と義

ガラ2:16「私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」
律法が『むさぼってはならない』と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう(ロマ7:7)…律法は罪を浮かびあがさせるものではあっても、律法自身に浄化能力や救いの力はないのです。律法に「むさぼるな」と書いてあるから、「よーし、むさぼらないようにするぞ」…と張り切っても無駄です。「文字は殺し、御霊は生かすからです(2コリ3:6)」とあるように、人の努力で律法を完成させようとしても無理なのです。「私の罪を背負ってくださった方を信じます。むさぼりは十字架と共に葬り去られました」という信仰が、律法を完成させるのです。さらに言うなら、御霊と共に歩み、心にキリストの信仰を持つなら、天の父なる神は「義」と見なしてくださるでしょう。自分で自分の心をコントロールするのではなく、御霊に委ねるのです。努力するなら、すべての問題を御霊に委ねる努力をするべきです。そうすれば、良い行いをも主が備えてくださっていることに気付くでしょう(エペ2:10)。