ピリピ2章 神のあり方を捨てられないとは考えず

ピリ2:6「キリストは神の御姿である方なのに、神のあり方を捨てられないとは考えず」

エス様は人となられ、肉をまとい、わたしたちと同じ境遇になって、ともに苦しまれました。にもかかわらず、イエス様は罪を犯さず、最期のときまで神に従われたのです。それは神の愛だから、とひと言で片づけてしまうにはあまりにも苦しい試練だと思います。イエス様は地上におられる間に、よくひとりになろうと寂しいところへ行かれました。マルコの福音書には4回も寂しいところへ行かれた記述があります(マコ1:35、マコ1:45、マコ6:31-32)。それは祈るためであり、父なる神との交わりを必要としていたからです。それはすべて肉体を持ったゆえで、神という姿を捨てても人を救おうとしたキリストの愛の現われです。律法を守り、罪から離れることがユダヤ人の人生のテーマでした。しかし、誰一人として罪を犯さない者はおらず、いけにえは毎日ささげられていました。律法を守り通したのはイエス様ただひとりです。パウロはイエス様を「信仰の創始者であり、完成者である(ヘブ12:2)」と表現しており、キリストを信じる信仰が神によって義と認められると語っています(ガラ2:16)。イエス様が傷のない子羊として捧げられた以上、それ以上のものはありません。キリストを信じることが罪が赦される唯一の方法なのです。