ヨブ1章 主は与え、主は取られる

ヨブ1:21「そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな 」
「裸」はヘブル語「arowm(アローム)」で、聖書に最初に登場したのはアダムとエバエデンの園にいたときの記述がです(創2:25)。裸は罪を意識しない、純粋無垢な状態を表し、人は誰でも生まれてくるときには裸を恥ずかしいと思って生まれてくるわけではありません。ところが、裸を意識した瞬間に罪は生まれるのです(創3:7)。主は与え「nathan(ナサーン)」、主は取られる「laqach(ラカア)」はヨブの信仰の告白です。多くを失ったヨブがその信仰の通りに生きれば、主はもう一度祝福されたでしょう。しかし、サタンの誘惑の手はさらに強まります。ヨブの命には触りませんでしたが、その代わりに悪腫瘍でヨブを打つのです(2:7)。それでもヨブは「私たちは幸いを神から受けるのだから、わざわいをも受けなければならない (2:10)」と、神を呪うようなことはしませんでした。イエス様の時代に弟子たちが盲目の人を指して、「彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか (ヨハ9:2)」と聞いたことがあります。何か悪いことが起きるなら、誰かのせいにするのは人の常です。ヨブは悪腫瘍も受け入れる覚悟だったのように思えます。それでも痛みは壮絶で、ヨブの友人たちが来て慰めなければならないほど落ち込んだのです(2:11)。どんな信仰者でも慰めの必要なときはあります。