ヨブ5章 私なら、神に尋ね

ヨブ5:8「私なら、神に尋ね、私のことを神に訴えよう 」
確かに3章までの間に、ヨブが神に尋ねたり、訴えている様子は見られません(1:20-2:10)。聖書にあるのはヨブが上着を引き裂き、頭を剃り(1:20)、土器のかけらで身をかいた(2:8)ことだけです。神に訴えない代わりに「裸でかしこに帰ろう(1:21)」と言い、さらに「わざわいをも受けなければならない(2:10)」と言っています。「私なら」というエリファズは、ヨブの信仰を知った上で話しています。それは「罪がないのに滅びた者はいない(4:7)」という彼の確信から来ています。続けてエリファズは「全能者の懲らしめをないがしろにしてはいけない(5:17)」と言っています。「尋ねる」のは神の意図が隠されているかを知ることです。エリファズの言い分としては、何もないのにこんな災難が起きるはずがない、というものです。パウロは試練について「神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません (1コリ10:13)」と語っています。それでも今回のヨブに起きたことは泣きっ面にハチどころの騒ぎではありません。聖書にはヨブの子どもたちが死んだことはわずかに1節にまとめられていますが(1:19)、10人の子ども(1:2)を一度に失うことなど耐えられない悲劇です。どんなに辛いことがあっても人生は続きます。喜びも悲しみもすべて神を褒めたたえるためにあるのです。