イザヤ41章 そうすれば、われわれは

イザ41:23「後に起ころうとする事を告げよ。そうすれば、われわれは、あなたがたが神であることを知ろう。良いことでも、悪いことでもしてみよ。そうすれば、われわれは共に見て驚こう」
「われわれ」というヘブル語は「知る」のヘブル語「yada(ヤダー)」に一人称複接尾辞が付くことによって複数形を表わす仕組みになっています。最初に聖書に登場した「われわれ」は創世記で「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて(創1:26)」ということばです。ここに書かれている後に起きることを告げるというのはいわゆる「予言」です。そして「先にあった事(22)」が未来の出来事とどう関係しているのかを告げるのは、全世界で起きることの全相関を知り得る人でなければできないことです。そんな奇跡のような予言をしてみよ、と語られています。そうすれば「われわれ」すなわち、天の父なる神、イエス様、聖霊がそれを見て驚くとあります(23)。未来を知り、神の領域を人が侵すわけにはいきません。そもそも人は「無に等しい(24)」存在にもかかわらず、神は目を留めてくださっていること自体が不思議なことなのです。ダビデが「人は何者なので、これを御心にとめられるのですか(詩8:4)」はそっくりそのまま聖書の神に問いたい疑問です。