アモス8章 主のことばを聞くことのききん

アモス8:11「見よ。その日が来る。――神である主の御告げ――その日、わたしは、この地にききんを送る。パンのききんではない。水に渇くのでもない。実に、主のことばを聞くことのききんである」
「ききん」のヘブル語は「raab(ラアーブ)」で、「飢える」という意味もあります。おそらく誰も神のことばを取り次ぐ預言者がいなくなるということで、事実聖書にはアモス、ホセアという2人の預言者以降の書簡は残されていません。一方のユダ国ではイザヤ、ミカがウジヤからマナセまで、エレミヤ、エゼキエルは捕囚まで体験しています。そう言う意味ではユダ国は、捕囚という最悪の状態の中でも預言者がいて、主のことばを伝える者がいました。ところがアモスの預言の中ではパンでも水でもないききんが起きることが書かれています。それが「主のことばを聞くことのききん(11)」だとあります。別の言い方をするなら「主のことばが聞けない渇き」とも言えます。どんなに神のことばを求めても与えられないのです。それはイスラエルが、律法にある「わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、わたしが彼に責任を問う(申18:19)」という大切な戒めを無視してきたからです。王も民衆も耳に心地よい預言だけを受け入れ、預言者もまた神から授けられていないデタラメな預言をしてきたツケが回ってきたのです。イスラエルの民は主のことばを失い衰え果てるのです(13)。