イザヤ49章 わたしのしもべとなって

イザ49:6「主は仰せられる。「ただ、あなたがわたしのしもべとなって、ヤコブの諸部族を立たせ、イスラエルのとどめられている者たちを帰らせるだけではない。わたしはあなたを諸国の民の光とし、地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする」
「わたしのしもべ」はヘブル語の「ebed(エベッド)」が使われ、創世記でノアが「のろわれよ。カナン。兄弟たちのしもべらのしもべとなれ(創9:25)」と言った「しもべ」と同じ語で「奴隷」や「召使」もこれを使います。しかし、この「しもべ」はただ主人の命令に従う者でなく、「諸国の民の光」とされるとあります。新約で生まれたばかりのイエス様を抱きシメオンは「異邦人を照らす啓示の光(ルカ2:32)」と表現しています 。またペテロは「この方以外には、だれによっても救いはありません(使4:12)」と救いはイエス様を通してのみ可能だと語っています。この救いについてはイザヤはイスラエルを再び集めること「だけ」ではないと強調しています。42章では「わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者(42:1)」という預言があり、神が絶対信頼を置き、しもべの存在をいとおしく思っていることがわかります。「しもべ」の名前はイザヤには出てきませんが、マタイでは預言が成就したという定型句は9回登場し、その根拠のほとんどがイザヤからのものです。