イザヤ63章 だれも助ける者はなく

イザ63:5「わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした」
聖書の中では神ご自身が自分を指して言う場合、ひらがなの「わたし」を使い、人間が自分を指す場合は漢字の「私」使うルールになっています。この章の前半では神が語られた「わたし」が中心に語られています(1-6)。「わたし」すなわち神ご自身を助けたり、ささえる者はいなかったとあります。「助ける」はへブル語「'azar(アザー)」で、「ささえる」は「camak(サマック)」が使われ「横にする」とか「傾ける」という意味があります。ここでは主の「復讐の日(4)」が来たことが告げられ 、「贖いの年(4)」にそれが起きることが預言されています。第2次世界大戦で亡くなった人は8000万人いるとされ、当時の世界人口の約2.5%が犠牲になったと言われています。それでも主は来られませんでした。終わりの時代はもっと人間関係が薄れ、たとえ身内であっても信じ合えないようになるとイエス様も言われています(マタ24:7)。さばきはイザヤの預言のように人を踏み、血で衣が赤くなるほどの主の怒りなのです(3)。