私も世界も十字架に

ガラ6:14「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです」
十字架が「木にかけられる者はすべてのろわれたものである(ガラ3:13)」という原則に基づくなら、私(パウロ)も世も一度は神に対して死んだものになります。そして次の節の「大事なのは新しい創造です(15)」につながるのです。ガラテヤの人たちには、うわべを取りつくろうとする癖があったようで、パウロは本質を必死に伝えようとしています。御霊を帯びたなら、御霊の実を見るように、肉の思いにはそれなりの実がなります(5:19-23)。また、うわべだけで割礼をしても肉を満足させるだけのものになってしまいます(13)。大切なことは最初に生まれたことでなく、一度死に、新しい創造を体験することです。生まれることはすべての人が経験できます。しかし、十字架につけられ新しく生まれ変わることは誰でも経験できることではありません。本当に十字架にかかるのではなく、私たちのために罪を背負って十字架にかかってくださった方を信じる信仰によって、私たちは十字架につけられ、生まれ変われるのです。