ガラテヤ2章 それこそキリストの死は無意味です

ガラ2:21「私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です」
私たちは無意味なもののためにキリストを信じるようになったのでしょうか。意味のないものに自分の人生を捧げるとすれば、それはむなしいことです。それでもキリスト教の基盤には律法があることは否定できません。律法があるからこそイエス様は地上に来られ、律法のゆえにイエス様は十字架にかけられたのです。ともすれば律法が悪いもののように考えがちですが、「律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです(ロマ7:12)」とパウロは言っています。律法は神から与えられた聖なるものなのです。異邦人にとって律法は、キリストを信じるときに大きな壁となります。それは「罪」という概念が、異邦人の世界にないからです。日本人ならなおさら理解しにくいものです。「なぜ、罪を悔い改めるのか」という疑問に対して、「それは律法を犯したからだ」と説明しても、律法のない世界に生きる人たちには理解できないことです。律法、罪の説明なしに、キリストの十字架を話したとしても、彼らには何のことやらわからないはずです。パウロバルナバは、この理解不能な人々のもとに遣わされた、律法のエキスパートです(9)。その根幹にはキリストを信じることが無意味ではない確信があるのです。