箴言20章 聞く耳と、見る目

箴20:12「聞く耳と、見る目とは、二つとも主が造られたもの」
聖書独特の言い回しで、「耳と目」という書き方をせずに「聞く耳、見る目」と表現しています。エゼキエルにも「見る目があるのに見ず、聞く耳があるのに聞こうとしない(エゼ12:2)」という表現があります。本来、目は見るもので、耳は聞くものなのは誰でも知っていることです。しかし、あえてそういう言い方をするには何か目的があるはずです、イエス様も「聞く耳のあるものは聞きなさい(マタ4:9)」と言われています。ここでも、「耳のあるものは」とは言わずに、「聞く耳のあるもの」となっています。それはただ目に映ったら「見た」ということにならないということです。同様に音を耳が感じたら「聞いた」ということではないようです。そこには明確な人の意思があります。見ようとする好奇心や関心がなければ、見たものを心に留めることはありません。聖書を毎日何時間眺めていたとしても、そのことばは人の心に働かないのです。人が自発的に見よう(あるいは読もう)としない限り「読んだ」ことにはならないのです。ソロモンは知恵を耳にしたから大丈夫だとは考えずに、耳にする者の心のあり方を指摘しています。そして、それは主が造られたものなのです。